いぬころびとのざれごと

犬ころのごとく生きる男が弄り徘徊しながら発する言葉。

「平和」ということば

私は広島で生まれ、広島で育ち、そして広島にずっといる。絵に描いたような「井の中の蛙」である。であるから、見聞なぞと呼べるものもなく、加えて生来の怠惰及び知識欲の欠如からろくに本も読んでいない。と、ここまで書くと、この先を読んでもらえないかもしれないが、でも書く。

広島で育ったということは、多分学校で「平和学習」なるものを受けていたはずである。「多分」と書いたのは、その記憶がほとんどないのである。強いて覚えていることと言えば、原爆資料館を見学した後、一週間ほどひとりで便所に行けなかったことくらいである。勉強嫌いな上に意気地がなかったのである。

それはさておき、「平和」という言葉は、広島という土地柄ゆえ頻繁に耳にしてきた、嫌になるくらいに。でも、改めて「平和」ってなんだろう?って考えるとよくわからない。私だけがわかっていないのかもしれないが、そうでもないようだ。その対義語としての「戦争」という言葉も、これまたよくわからない(誰もがよく使う言葉には、そういったものが結構あるような気もする)。そしてまた、これを厳密に定義することの意味合いはあるのだろうか?なぞとも思ってしまう。確かに法の世界などではきっちり定義づけしておかなければ困るのであろう、それはわかる。でもです。そういったもので、これまでにどれだけの「戦争」を回避し得てきたのだろう?これらの言葉は、なにか「標語」、「プラカード」、「お題目」的なものとして唱えられ、ぽっこりと危うく浮かんでいる感がある。そして、さらに始末が悪いのは、その使用頻度の高さから、「なんかわかったような気」になって、もっともらしく「悪用されている」とさえ思ってしまう。

と、ここまでグダグダと書いて申し訳ないが、私はこれらの言葉が、「好きではない」というか、要するに「嫌い」なのである。『「世界のヒロシマ」に生まれ育って、しかもその中に「井の中の蛙」としてどっぷり浸かっているにもかかわらず「平和」という言葉が嫌いだ、とはなんたることか!誠にけしからん!!!』と怒られそうだが、そう感じてしまうのだからどうしようもない。すみません。。。。

と、前述の理由につき、この言葉を聞くと、やはり、なんとも「居心地が悪い」というか「気持ち悪い」のである。「胡散臭さ」をぷんぷんに感じてしまうのである。生活の中から滲み出てきた言葉ではなく、「意図的な造語」の気持ち悪さを感じるのである。自分は生来どちらかというと、見かけが悪くて、下品で見窄らしくても、みじかで親しみやすいものが好きなのです。地べた這いづり回って、下世話で世俗的なものが好きなのです。と、急に「です、ます」調になってしまいましたが、「生きる」とはそもそもそういったことであり、その中で交わされるのが「生きた言葉」、「本音の、そして本当の言葉」なのではないか、などと偉そうなことを思ってもいるのです。

さて、ここで、これまでの戦争に至る歴史を鑑みると、どうも以下のような気がしてしまう。

比較的平穏な日常(これを「平和」と呼ぶのか?)を過ごしていたが、「なんか変だな、やだな。。」って感じる「戦争のたまご」のようなものが知らぬ間にあちこちに「プニョプニョ」と繁殖している。が、それにもかかわらず、「まあ、気のせいか。平穏な日常が続くだろうから心配ないよ」と思って、その「やなもの」を見落としてしまう、いや「意図的に無視」してしまい、知らぬ間に月日が流れる。そしてある日、はたと気がついてみると、自分の周りがその「やなものだらけ」になって身動きできない、とんでもない状態(これを「戦争」と呼ぶのか?)に陥っている、「お国のために!」と日の丸降られて「万歳三唱!」。

どうも「平和」だとか「戦争」だとかというよくわからない言葉で考えて、「平和」を真面目に「祈念」しているなどしていると、こんなことになってしまうのだ。「いや、戦争などというものは、そんなチマチマしたことじゃなく、もっと大きな力に動かされてはじまるのだ!」と言われるかもしれない。それはそうかもしれない。しかし、それは戦争にある程度の「振り」がついてからのことで、やはり、その「振り」がつく前に、日々の生活の中で、この「得体のしれない、やなもの」の匂いをただただ注意深く嗅ぎ取り、その都度その都度こまめにこまめに摘み取って潰していくしかないのではないか(とても難しいことだけれど、、、)、と。しかもそれは、身近な人と人との関係からはじまるのだ。だって、その関係性が社会全体を形作っているのだから。そしてそれは、単に「自分がされてやなことを、できるだけ人にしないよう、みんなで心がけましょう!」てな、小学校の教室にでも貼られている「標語」のようなことだと、私は思うのです。またまた「です、ます」調になってしまいましたが。。ただそれは、「博愛」だの「隣人愛」なんぞでは決してなく、あくまで「自己の生存」のために、極めて「利己的」にするのです。「利己的」という言葉はとても嫌な言葉に聞こえるかもしれないが、そんなことはない。人間が生き物である以上、根源的に「利己的」であることはやむを得ない、と思うのです。そんなことよりも、「なんか訳のわからない見てくれのいいものにラップされた気持ちの悪い言葉」の方が数百倍、数千倍、いやいや数億倍も「やばい」と感じるのです。「利己的」万歳!!!!ただ「利己的」であるが故に「自分が何をしでかすかわからない、とてつもなく危うい存在である」ということを常に常に肝に銘じておくことが肝要なのだと、私は思っているのです。

いつも己の中に「平和」と「戦争」が絶え間なくイングリモングリと蠢いている。

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