いぬころびとのざれごと

犬ころのごとく生きる男が弄り徘徊しながら発する言葉。

またまた 詩をかく

散髪の唄

 

あたまを チョッキン 刈りたくて

馴染みの店へ てくてく歩く

 

やあ いらっしゃい

今日も いつもくらいで いいですか?

はいはい そうしてくださいな

 

チョキチョキ ぱらぱら チョッキンな

脱皮してるよな ここちよさ

 

ちょきちょき パラパラ チョッキンな

窓からコロコロ ひかりの粒が

流れる音のリズムに あわせて踊る

 

目を閉じれば あの頃の

あれやこれやが 蘇る

 

喜び 悲しみ 憎しみやらが

はらはら ほろほろ 床に落ち

そうして そして

ちがう わたしが

鏡の中で 笑ってる

 

明日に向かって てくてく歩く

あらたな わたしが

鏡の中で 笑ってる

 

またまた 詩をかく

散髪の唄

 

あたまを チョッキン 刈りたくて

馴染みの店へ てくてく歩く

 

やあ いらっしゃい

今日も いつもくらいで いいですか?

はいはい そうしてくださいな

 

チョキチョキ ぱらぱら チョッキンな

脱皮してるよな ここちよさ

 

ちょきちょき パラパラ チョッキンな

窓からコロコロ ひかりの粒が

流れる音のリズムに あわせて踊る

 

目を閉じれば あの頃の

あれやこれやが 蘇る

 

喜び 悲しみ 憎しみやらが

はらはら ほろほろ 床に落ち

そうして そして

ちがう わたしが

鏡の中で 笑ってる

 

明日に向かって てくてく歩く

あらたな わたしが

鏡の中で 笑ってる

 

新年早々 詩をかく 

はなし

 

誰かが 話をしている

楽しそうに 話をしているものの

不安の影を 床におとしながら

話をしている

 

そうすることで 

何かが変わるわけでもないことを

知っていながら

話をしている

そして

また 更なる不安に 苛まれている

 

それでも 話を やめられない

いっときの沈黙さえも 

心が 押しつぶされるかのように

話をしている

 

黙ってしまえば それでいいことを

知っていながら やはり

 

はなしを している

 

 

床に伏す犬

10何年ぶりかにインフルエンザにかかった。

その間、インフルの予防接種を一切してなかったせいかどうかはわからないが、とにかく強烈であった。平熱から数時間のうちに39度以上まで熱が一気に上がって医者のもとへ。

ふうふう言いながら飯もあまり食えず寝てたら、翌日からは、薬のお陰で「すううー」と徐々に熱が下がった。

なんか、大型台風がいっきに通過したような感じであった。とてもしんどかったのであるが、それでもまあいいこともあった(この程度のことであったから言えるのだが)。

いいこと その1

途中まで読んでそのままになっていた本を3冊も読了することができた。やはり「面白い本を読む」というのは、とても楽しいことだと改めて思うし、少々長く読んでもそんなに疲れないのだ。それに比べ、スマホなどをダラダラみてると、それだけで「とてもやな疲れかた」するということに改めて気づく。そういえば、パソコン類を長時間いじってるといつも具合が悪くなるのであった。やはり私は「アナログ人間」であった。

いいこと その2

日頃、ぼんやりと考えてることを、丁寧に整理して考えたりすることができた。

「いろいろな事柄や人との関わり方を改めて見直す」、と言っても、自分のはそんなに大袈裟なことではないのだが。「このことやこの人とは、まあこの程度に」とか。でも、ついついのめり込みやすい性質のわたくしには、とてもとても大切なことだと、改めて思うのであった。

いいこと その3

これは、オマケであるが、「配偶者にうつしてはいけない」ということで、妻とできるだけ接触を避けている。で、これが何とも言えず精神衛生上よろしいのである。多分、あちらも同様なことを思っているに違いない。それと、ブログを久々に更新することができたこと。

 

ということで、とても天気の良い日曜日に、家の中でウダウダしているのであった。

またまた 詩をかく

同心円

 

今朝、小雨のなかを 歩いていた

真っ直ぐに続く道と 等間隔の街路樹と

蟻の行列のような通勤者を眺めながら

歩いていた

 

歩道の水たまりに 雨が落ちている

同心円が いくつも いくつも できては消え

できては消えて いる

 

どれも どれも 正確な円を描いている

不思議だ とても不思議だ

乱れなく 律儀に 執拗に

円は ひたすらに

消えては あらわれ

あらわれては 消えて いる

 

しばらく それを見ていた私は 

苛立ちのようなものを 覚え

そして 憎しみをさえ 

抱きはじめていた

 

 

久々に、詩をかく

音楽(おと)

 

今朝は 音楽の はいってくる日
こころのなかに 小川が流れている
その小川のおとと一緒に 音楽が流れている

静脈 動脈 その他のあらゆる器官を そよ風のように揺らして
ゆらゆらと揺らして 音楽が入ってくる
私のからだと音楽は しずかに 
とてもしずかに はなしをしている

限られた時が 永遠のものとなり
その永遠なる色をも 曖昧にして
いま わたしは
音楽と はなしをしている

 

 

 

「絵を描く」ということについて

 
昨年くらいから妻の絵を描いている。といっても、私の絵は、「いたずら描き」のような自堕落な絵である。「絵」と言えるかどうかも怪しい。
で、この妻とはもう40年以上前に知り合って、とりあえず一緒にいる。そして、なんやかんやと「ちまちま」と妻のことを描いている。傍からは「いい年こいて惚気てやがる、あははは」なんて思われ


ているかもしれない。でも、いいのである。「人からどう思われようが、そんなに人の迷惑にならない限りにおいては、気にせずに生きた方がずうっっと生きやすい」ということが分かっているし、人はそんなに自分のことを見ていないのである。私も見ていないが。。。
 そして、やっとここで本題に入るのだが、こうやって妻の顔を描いていて、はたと気付いた。「へええ、こんなにいろんな表情をしてたんだ・・・」と。もう数年もすれば半世紀近くも一緒にいる人なのに、ぜんぜん気づいていなかった、いや「見ていなかった」ということが分かって唖然とする。とにかく、さまざま表情や仕草をしているのである。そして、それを目の当たりすると、また「描きたく」なる。一種の病気である。それとは少し違う感じだが、植物なども描いてると、「はあ、葉っぱってこんなになってんだあ!」っていう気になる。牧野万太郎に近い状態になっているのである。
ということで、「何かを描く」ということは、「違ったものが見えてくる」、いわば、「今までの自分から、また別の自分になれる」ことなのではないか、と梅雨空を眺めながら思ふのでふ。。