いぬころびとのざれごと

犬ころのごとく生きる男が弄り徘徊しながら発する言葉。

「表現する」ということについて

朗読について、別のところで書いた文を以下に載せます。つまり「表現すること」、「他者とつながるということ」、それは「生きる」ということにもつながるのでは、と考えております。

(本文)

朗読について何かを書くように、とのことですが、当方、朗読を始めて(というか、表現ということに関わることになって)6年弱であり、この浅い経験をもって言えるものなど何も持ち合わせていない、というのが正直なところです。

ですが、とりあえず、これまでやってきて、ひとつだけ、わかったというか気づいたことについて、僭越ながら書かせていただきます。

その気づいたことというのは、「朗読は読解に尽きる」ということです。「なんだ、そんなことは当たり前のことだろう」と言われるかもしれません。ですが、この「読解」が伴わなければ、その朗読者の方がどんなにいい声で朗読されようが、どんなに発声などの朗読技術が素晴らしかろうが、ほぼほぼ「伝わらない」ということが、この私にも分かってまいりました。

で、ここで厄介なのは、「経験による自分の仕方」という奴です。私にしても、朗読を始めた当初に比べれば多少なりとも「それらしい朗読」というものができるようになりました。この「経験による自分の仕方」の習得によって得た「それらしくする技術」というものは、自分の耳にはとても「それらしく、もっともらしく」聞こえるのです。しかし、それはあくまで自分に対してだけで、聴いている相手には、やはり、何も伝わっていないようです。言ってみれば「うんうん、それらしくやってるね!」でおしまい、というような。

考えてみますに、作家が何かの文章を書こうとすれば、当然、それに必然性があります。まあ、当たり前のことです。その文章のひと文字ひと文字には「なんらかの理由や思い」が必ず込めれられています。朗読者がそういったことを丁寧に拾いとって「読解」することなく、ただそれらしく吐いてしまった「読み」は、どこにもおさまりようがなく、ただただ宙に漂い、誰の元にも届かないようです。と、自分のことも含めて言っているわけですが。

なお、このことは、朗読のみならず、演劇、音楽、舞踏など、他の表現行為にも同様に言えることなのかもしれません。

相手に伝わるように「表現する」ということは、とてもとても大変なことだと、つくづく感じている次第です。

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