いぬころびとのざれごと

犬ころのごとく生きる男が弄り徘徊しながら発する言葉。

映画のことを知らない男の映画評論

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私は映画について詳しくありません。誰でも知っているような映画も大して知らないし、そんなに頻繁に観にも行かない、という「映画のことを知らない」人間であります。「なのに、映画評論をお前は書くのか?」と言われそうですが、前々から気になって仕方がないことがあるので、あえてブログに書くことにしました。

最近、「ドライブ・マイ・カー」という映画を観に行きました。何故にこの映画を観に行ったかといえば、「久しぶりに映画でもみるか」という気になって調べたら、この映画がたまたま目に止まったという程度の理由です。映画を観に行く理由は、大体がその程度のことです。で、この映画、ゴールデングローブ賞を受賞したそうな。確かに、村上春樹原作だけあって、話の筋もまあそれなりに面白く、三浦透子という女優もなんか存在感があってそれなりに楽しめました。けど、そんなにもう一回観ようというほどのことはありませんでした。特に、何が気になったかといえば、「なんでそんなにくどくどとしたセリフが多いの?」ということでした。つまり、「なんでそこまで説明しなきゃならないのだろうか?」と。映画という「映像」あり「音」ありの「情報量に溢れた表現媒体」に、さらにそんなにゴテゴテとセリフでいちいち説明しなければならないのか?その意図は?と思ってしまったのです。「言わなくてもわかってる、伝わっている」ことを、くどくどと言ってしまって、大切なシーンが台無しになっているよ、あらあら勿体無い!しかし、それはこの映画だけでなく、他の映画にもちらほらと見受けられる、いや、しばしば、頻繁に見受けられ、そっちの方が気になって仕方がなくて、映画をしっかり鑑賞するどころではなくなってしまうのです。とほほ。

なんでだろう?まあ、理屈をメインとしたストーリーでわざにそうやっているのであれば、それも分からない訳ではないのですが。。。いや、もはや、この年になって、映画の新しい表現方法に自分がついていけてないのであろうか?そうかもしれない。そういえば、ちょっと前の映画って今の映画に比べてセリフが少ないような。私の好きな小津安二郎の映画などは、無言のシーンがとても多いような。で、その無言の時間がなんともいえず、いろいろなことを語っているように思われてしまうのです。「それはお前の懐古趣味というやつだろう!」と言われればそうかもしれません。でも、「別に古いものだからいいんだよ!」と思っているわけでもありません。

これに関連してるのかどうかわかりませんが、「ミュージカルっていいな」と今更ながら思うことが多くなってきました。歌詞という「言語」はありますが、主役は「旋律」や「ダンスなどの動き」などの「非言語」であり、情報量の多い「映画」という表現行為にとても相性がいいように感じます。北野武さんが「映画は全部見せず語らず、隠すことが大切なんだ!」てなことをおっしゃているらしいですが、私も同感であります。みなさん、どう感じられておられるのでしょうか?

そして、このことは他の表現行為にも結構当てはまるのではないでせうか?俳句などは、たった17音でつくられてるけど、あれっていわば「できるだけ隠そう」としているのかもしれない。隠してなんぼ!「えっち」なことだって、やはり「隠してなんぼ!」では???

 

話が逸れてまいりましたので、今回はこれまで。。。。