いぬころびとのざれごと

犬ころのごとく生きる男が弄り徘徊しながら発する言葉。

詩をつくってみた 「幼稚なわたし」 

幼稚なわたし

 

わたしは 幼稚です

むずかしいことは わかりません

でも だれか 教えてください

 

人のいのちよりも 大切なものが

この世に あるのですか

 

わたしは 幼稚だから

ほんとうに わからないのです

 

どなたか おしえてください

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泣きながら雪を集める少女

 

詩をつくってみた 「眠るひと」

眠るひと

 

寒いさむい 雪のあさ

電車のなかの ねむる人

頭(こうべ)をたれて 前髪で顔をおおい

つかれはてた けもののように 

ただひたすらに 眠っている

 

どんな夢をみているのだろう

とおいとおい 森のゆめ

遠いとおいとおい 海のゆめ

みんなみんな ゆめのなかで 遠いじぶんと 会っている

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詩をつくってみた 「階段」

階段

 

うら階段を 降りてゆく

とんとんと 降りてゆく

からんからんと 降りてゆく

ぐんぐんと 降りてゆく

 

うら階段を 降りてゆく

深く深く 降りてゆく

かなしみも せつなさも 

かなぐり捨てて 降りてゆく

昨日みた夕日も 

雨上がりのそらに浮かぶ虹も忘れて

降りて行く 

君も あなたも 忘れて 降りてゆく

 

うら階段を 降りて行く

わたしは わたしは 降りてゆく

 

かすかな かすかな あかりに憧れて

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「グレる」について、自堕落に考察する

わたしは、世間からみればそんなに「グレて」はいないように見えるかもしれない。

が、こころの中では相当に「グレまくって」いる。そんなことを書いても、「勝手にグレてろや!」と言われるまでだが、しょうもないことを書きたいのだから困ったものである。やはりそれも「グレてる私の中身」がそうさせているのだろう。

 

さて、「グレる」と言えば、音楽のジャズのことをすぐに思い浮かべてしまう。「いや、グレてると言やあ、そりゃやっぱロック、しかもヘビメタやパンクかなんかだろう?」と言われそうだが、「グレてる」音楽は、私の中ではやはり「ジャズ」である。急にテンションコードなんかが入ったり、リズムが揺れ・ズレしたり、音がモゲたりしたら、「あっ、今ちょっとグレやがったな、ウヒヒ・・」とひとりニンマリしてしまう。そうだ、クラシックも優雅に隠微に「グレて」いる。絵もそうだ。抽象画なんかはフリージャズのようだ。印象派もヘンテコリンに鬱屈して「グレて」いる。不条理演劇の「グレまくり」ぶりも、堪らない。なんと私は「グレてる」ものがこんなにも好きなんだろうか!「グレてる」様、万歳!!万歳!!

 

と、ここまで馬鹿なことを書いてきて、ふと気づいたのだが、「ぐれる」という言葉を「グレる」というふうに無意識にカタカナで書いている。そのほかの言葉も結構カタカナを多用している。。

ということは、カタカナ語というのは、ある意味「グレてる」言葉なのか?真偽のほどはわからないが、私にはそうなのかもしれない。。。

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詩をかいてみた

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影とのダンス

 

 

ある夏の日

ひねもす遊んで 気がつくと僕は 夕日のただ中にいた

 

家の壁には 僕の影が大きく大きく映っている

僕が動くと それにあわせて影もゆらゆらと踊る

僕と影とのダンスの始まりだ

 

滲みしたたるような茜いろのスクリーンをバックに 

僕と影とのダンスは続く

遠くの方からは カラスの効果音だ

 

次第に 照明は深い青みを帯びて 緩やかに消えていく

僕と影の輪郭は曖昧となり 闇へと溶けていく

 

崩れゆく影は 僕をどこかへ連れ去ろうとでもするかのように 覆いかぶさってきた

僕は こわいような かなしい気持ちになって 舞台裏へと走り去る

 

そして 僕と影とのダンスは 終った

映画のことを知らない男の映画評論

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私は映画について詳しくありません。誰でも知っているような映画も大して知らないし、そんなに頻繁に観にも行かない、という「映画のことを知らない」人間であります。「なのに、映画評論をお前は書くのか?」と言われそうですが、前々から気になって仕方がないことがあるので、あえてブログに書くことにしました。

最近、「ドライブ・マイ・カー」という映画を観に行きました。何故にこの映画を観に行ったかといえば、「久しぶりに映画でもみるか」という気になって調べたら、この映画がたまたま目に止まったという程度の理由です。映画を観に行く理由は、大体がその程度のことです。で、この映画、ゴールデングローブ賞を受賞したそうな。確かに、村上春樹原作だけあって、話の筋もまあそれなりに面白く、三浦透子という女優もなんか存在感があってそれなりに楽しめました。けど、そんなにもう一回観ようというほどのことはありませんでした。特に、何が気になったかといえば、「なんでそんなにくどくどとしたセリフが多いの?」ということでした。つまり、「なんでそこまで説明しなきゃならないのだろうか?」と。映画という「映像」あり「音」ありの「情報量に溢れた表現媒体」に、さらにそんなにゴテゴテとセリフでいちいち説明しなければならないのか?その意図は?と思ってしまったのです。「言わなくてもわかってる、伝わっている」ことを、くどくどと言ってしまって、大切なシーンが台無しになっているよ、あらあら勿体無い!しかし、それはこの映画だけでなく、他の映画にもちらほらと見受けられる、いや、しばしば、頻繁に見受けられ、そっちの方が気になって仕方がなくて、映画をしっかり鑑賞するどころではなくなってしまうのです。とほほ。

なんでだろう?まあ、理屈をメインとしたストーリーでわざにそうやっているのであれば、それも分からない訳ではないのですが。。。いや、もはや、この年になって、映画の新しい表現方法に自分がついていけてないのであろうか?そうかもしれない。そういえば、ちょっと前の映画って今の映画に比べてセリフが少ないような。私の好きな小津安二郎の映画などは、無言のシーンがとても多いような。で、その無言の時間がなんともいえず、いろいろなことを語っているように思われてしまうのです。「それはお前の懐古趣味というやつだろう!」と言われればそうかもしれません。でも、「別に古いものだからいいんだよ!」と思っているわけでもありません。

これに関連してるのかどうかわかりませんが、「ミュージカルっていいな」と今更ながら思うことが多くなってきました。歌詞という「言語」はありますが、主役は「旋律」や「ダンスなどの動き」などの「非言語」であり、情報量の多い「映画」という表現行為にとても相性がいいように感じます。北野武さんが「映画は全部見せず語らず、隠すことが大切なんだ!」てなことをおっしゃているらしいですが、私も同感であります。みなさん、どう感じられておられるのでしょうか?

そして、このことは他の表現行為にも結構当てはまるのではないでせうか?俳句などは、たった17音でつくられてるけど、あれっていわば「できるだけ隠そう」としているのかもしれない。隠してなんぼ!「えっち」なことだって、やはり「隠してなんぼ!」では???

 

話が逸れてまいりましたので、今回はこれまで。。。。

 

「表現する」ということについて

朗読について、別のところで書いた文を以下に載せます。つまり「表現すること」、「他者とつながるということ」、それは「生きる」ということにもつながるのでは、と考えております。

(本文)

朗読について何かを書くように、とのことですが、当方、朗読を始めて(というか、表現ということに関わることになって)6年弱であり、この浅い経験をもって言えるものなど何も持ち合わせていない、というのが正直なところです。

ですが、とりあえず、これまでやってきて、ひとつだけ、わかったというか気づいたことについて、僭越ながら書かせていただきます。

その気づいたことというのは、「朗読は読解に尽きる」ということです。「なんだ、そんなことは当たり前のことだろう」と言われるかもしれません。ですが、この「読解」が伴わなければ、その朗読者の方がどんなにいい声で朗読されようが、どんなに発声などの朗読技術が素晴らしかろうが、ほぼほぼ「伝わらない」ということが、この私にも分かってまいりました。

で、ここで厄介なのは、「経験による自分の仕方」という奴です。私にしても、朗読を始めた当初に比べれば多少なりとも「それらしい朗読」というものができるようになりました。この「経験による自分の仕方」の習得によって得た「それらしくする技術」というものは、自分の耳にはとても「それらしく、もっともらしく」聞こえるのです。しかし、それはあくまで自分に対してだけで、聴いている相手には、やはり、何も伝わっていないようです。言ってみれば「うんうん、それらしくやってるね!」でおしまい、というような。

考えてみますに、作家が何かの文章を書こうとすれば、当然、それに必然性があります。まあ、当たり前のことです。その文章のひと文字ひと文字には「なんらかの理由や思い」が必ず込めれられています。朗読者がそういったことを丁寧に拾いとって「読解」することなく、ただそれらしく吐いてしまった「読み」は、どこにもおさまりようがなく、ただただ宙に漂い、誰の元にも届かないようです。と、自分のことも含めて言っているわけですが。

なお、このことは、朗読のみならず、演劇、音楽、舞踏など、他の表現行為にも同様に言えることなのかもしれません。

相手に伝わるように「表現する」ということは、とてもとても大変なことだと、つくづく感じている次第です。

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